こんにちは。
3回にわたってお送りしてきた、月山富田城の案内板文字起こしも今回で最終回です。
最後の舞台は、城内で最も高い位置にある「三ノ丸~本丸」です。
山頂にも案内板がいくつかありますが、息を切らしながら七曲りを登りきると達成感で一杯になり、看板を読むのをついつい忘れてしまいがち…。
現地で立ち止まって読む時間がない時のガイド役として、また、おうちでの歴史ロマンあふれるバーチャル登城の一助として、ぜひ最後までお楽しみください。
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案内板一覧
今回紹介する案内板はこちらです。
- 三ノ丸
- 尼子・毛利による富田城攻防戦
- 四季の写真
- 二ノ丸
- 月山略史年表
- 勝日高守神社
大まかな位置はこちらです。

1. 三ノ丸
三ノ丸の石垣の手前にある案内板です。
ここからいよいよ1度も敵の侵入を許さなかった月山富田城の心臓部に入ります。

三ノ丸 SANNOMARU
月山の山頂部には、最後の砦として本丸、二ノ丸、三ノ丸という曲輪が造られました。三ノ丸はその入り口にあたる重要な曲輪でした。
発掘調査により段状の石垣と、崩れ落ちた石材が確認されました。戦時に石垣の段状を多くの兵士が通路として利用したり、敵を待ち構えたりするために段状に石垣を積んでいたのではないかと考えられます。また、わざと曲げられた入口通路も、敵の侵入を困難にするための工夫でした。このように戦国時代の築城には城を守るための工夫が随所にみられます。

三ノ丸の階段は結構傾斜があるので、もうひと踏ん張り行きましょう!

2. 尼子・毛利氏による富田城攻防戦
三ノ丸を超えた先の二ノ丸で、見晴らしのいい平地にある案内板です。
目の前の眺望と見比べながら、当時の状況に思いを馳せることができます。

尼子・毛利による富田城攻防戦
出雲国に侵攻した安芸国の戦国大名毛利元就は、永禄七年(1564)より尼子義久の籠る富田城を包囲しました。
元就は富田城の北西にある星上山に陣を進め、菅谷口、御子守口、塩谷口の三方から攻撃を開始しましたが、尼子方も堅固な城を頼りに果敢に防戦しました。
そこで元就は富田城の対岸や周囲の山々に多数の陣城を築いて富田城への物資や兵糧の補給路を遮断し、さらに城下の麦薙を行うなど徹底的な兵糧攻めを行ったため、尼子方は窮地に追い込まれました。
尼子方も山中幸盛(鹿助)が品川大膳との一騎打ちに勝利するなど奮戦しましたが、永禄九年(1566)十一月二十八日、遂に尼子義久は城を開城して投降し、ここに戦国大名尼子氏は滅亡しました。
3. 四季の写真
二ノ丸にある東屋には、地元の方の心遣いで四季折々の富田城の写真が飾られています。


この度はご登城ありがとうございます。
ご都合により今の景色しか見ることができない方のために富田城跡四季折々の写真を展示させて頂きました。
心ゆくまでご覧頂ければ幸いに存じます。
機会ありましたら再度のご登城、心よりお待ちしています。
撮影者 長谷川弘治
きれいな写真を見ると、また別の季節にも再訪したくなりますね。
4. 二ノ丸
二ノ丸についての案内板です。

二ノ丸 NINOMARU
発掘調査により、建物や柵、堀の柱穴跡が検出されました。そのうちの1棟からは備前焼のカメが3個発見されました。戦時に飲み水や食物を貯蔵するための建物だったと考えられます。曲輪の周囲には石垣が積まれ、二ノ丸と本丸の間には深さ約10mの空堀(堀切)が石垣で造られていました。このように最後の砦である本丸を厳重に守っていました。
5. 月山略史年表
最後の曲輪となる本丸にある案内板です。
表面が黒ずんでいて、現地で見てもかなり読みにくいので、ぜひとも文字起こしを参考にしてください。
年代の対応が分かりやすいように、表形式でまとめています。

月山略史年表
| 保元 | 平治の頃 | 藤原景清築城すという |
| 文治 元 | 一一八五 | 佐々木義清雲隠の守護となって富田に入城 |
| 興国 二 | 一三四一 | 塩治高貞山名氏に追われ出雲に帰って自殺 |
| 興国 二 | 一三四一 | 塩治氏の後は佐々木高氏代って富田を治む |
| 正平 八 | 一三五二 | 山名時氏佐々木高氏と争い雲隠二国を奪い富田秀貞を守護とす |
| 天中 八 | 一三九一 | 山名満幸内野の戦に敗れ富田より鎮西に走り殺さる |
| 天中 九 | 一三九二 | 京極高詮雲隠の守護となり尼子持久を守護代とす |
| 文明十六 | 一四八四 | 尼子清定(経久の父)追放され塩治掃部介之に代る |
| 文明十八 | 一四八六 | 正月元旦経久塩治掃部介を急襲富田城奪取(二九) |
| 永正十五 | 一五一八 | 経久の嫡男政久桜井宗的を阿用に攻めて戦死(二六) |
| 天文 三 | 一五三四 | 経久の三男興久父に叛いて備後に逃げ自殺(三八) |
| 天文 九 | 一五四〇 | 尼子晴久毛利元就を安芸吉田に討伐の為富田を出発(八月十日) |
| 天文 十 | 一五四一 | 一月十三日尼子義勝安芸吉田にて戦死晴久敗走 十一月十三日経久富田城にて卒す(八四) |
| 天文十二 | 一五四三 | 三月大内義隆月山に来攻大敗 敗走中嫡子義房揖屋沖にて溺死(二〇) |
| 天文十四 | 一五四五 | 八月十五日山中鹿介月山北麓新宮谷に生る |
| 天文二十五 | 一五五四 | 十一月一日晴久新宮党を族滅す |
| 永録 五 | 一五六二 | 十二月二十四日晴久城中にて急死(四九) |
| 永録 八 | 一五六五 | 四月毛利元就月山三面攻撃すも成功せず 九月二十日鹿介毛利の武将品川大膳と川中島にて一騎討 |
| 永録 九 | 一五六六 | 十一月尼子義久毛利の軍門に降る(経久富田入城以来八十一年) |
| 永録十二 | 一五六九 | 六月山中鹿介尼子勝久を擁して隠岐より千酌に上陸す |
| 元亀 元 | 一五七〇 | 二月十三日鹿介布部中山に於いて毛利と戦い大敗 |
| 元亀 三 | 一五七二 | 勝久鹿介別々に出雲に撤退す |
| 天正 六 | 一五七八 | 七月三日上月城落城 勝久切腹(二六) 七月十七日鹿介備中国甲部川阿井の渡しにて討る(三四) |
| 天正十三 | 一五八五 | 毛利元秋城中にて病死 宗松寺に葬らる |
| 慶長 五 | 一六〇〇 | 堀尾吉晴忠氏父子 富田城に入城 |
| 慶長 九 | 一六〇四 | 忠氏城中にて病死 新宮谷忠光寺に葬る |
| 慶長十二 | 一六〇七 | 吉晴松江に築城開始 |
| 慶長十三 | 一六〇八 | 堀尾のお家騒動堀尾河内守その子掃部共に切腹(親子観音に祀る) |
| 慶長十六 | 一六一一 | 富田城を松江に移す 松江城現在の規模に完成 六月十七日吉晴松江にて卒(六五)遺言により富田に帰葬 富田は築城以来四二七年にして廃城となる |
せっかく山道を頑張ってきたゴール近くにある案内板なので、読める状態に整備してほしいところですね。

それなりの権限をお持ちの方、清掃か更新かぜひご検討ください!
6. 勝日高守神社
本丸の最奥、正真正銘の終着にあるのが勝日高守神社です。

勝日高守神社
大国主命がまつってある。(尼子時代は、代々城内のまもり神であった)月山は、高さ190mである。
長い籠城戦中は、城兵たちの精神的よりどころにもなっていたのではないでしょうか。
ちなみに同じように大国主命を祀った神社として、出雲大社が有名です。
安定して国を治めた「国づくりの神」として戦国大名にも広く信仰されていたのですね。
まとめ
全3回にわたってお届けしてきた「月山富田城の案内板を文字起こしシリーズ」、ついに山頂の本丸までたどり着きました!最後までお付き合いいただき本当にありがとうございます。
山麓から始まり、かつて政治の中心だった山中御殿、そして険しい七曲りを超えた山頂の三ノ丸・二ノ丸・本丸へ。
現地の案内板に刻まれたひとつひとつの言葉を紐解いていくと、ただの城跡にしか見えない場所も、かつて武将たちが命がけで守り暮らした「生きた歴史の舞台」として浮かび上がってくるのではないでしょうか。
本丸から見渡す広瀬の町や遠くに臨む中海のきらめきは、厳しい山道を登り切った人だけが味わえる特別なご褒美です。
事前に歴史を予習している方も、スマホ片手に現地を歩いている方も、ぜひこの記事を相棒に五感で月山富田城の風を感じ、尼子一族の壮大な物語に思いを馳せてみてくださいね。
それではまた別の記事でお会いしましょう。
月山富田城についてはこちらもご覧ください。






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