こんにちは。
今回から3記事は、月山富田城の現地各所に設置されている案内板を写真とともに文字起こしして紹介していきます。
戦国時代に難攻不落を誇った尼子氏の本拠地・月山富田城。
広大な城跡を歩こうとすると、道中たくさんの案内板や解説碑が出迎えてくれます、
しかし、いざ現地に行ったとしても
「文字が小さくて読みづらい」「時間の都合でじっくり読めなかった」「写真に撮ったのに光の反射で読めない」なんてこともありますよね。
そこで今回から3回に分けて、月山富田城にある案内板を写真とともに文字起こししてまとめます。
1回目は「山麓~花ノ壇」にある案内板を紹介します!
登場前の予習はもちろん、現地で歩く際にもガイド代わりとして活用してください。
案内板一覧
- 尼子興久の墓
- 山中鹿助像
- 花ノ壇
- 堀尾吉晴公墓所
今回紹介する案内板の大まかな位置はこちらです。

1.尼子興久の墓
城攻めのスタートとなる、安来市立歴史資料館の駐車場から歩いていると最初に見えてくる案内板です。


尼子興久墓
興久は経久の三男である。
原手郡七百貫の領地がもらわれなかった為に、天文元年八月父にそむき、敗れて妻の父備後甲山城主山内大和守直通にたよったが、天文三年自殺した。年三十八歳であった。
裏切られたとはいえ、城内に墓があるというのは尼子経久の親心を感じますね。
2.山中鹿助像
スタートから階段を上り、千畳平との分岐を進むと見えてくる山中鹿助像の案内板です。


山中鹿助幸盛(生年不詳~一五七八)
山中幸盛は尼子氏の一門である山中氏の出身で、病弱の兄に代わって家督を継承した。幼名を甚次郎、元服後は幸盛と名乗った。一般的には鹿助の名が知られている。
毛利氏による富田城攻めの際に、益田氏配下の武将である品川大膳との一騎打ちで名を馳せ、尼子氏滅亡後は尼子勝久を奉じての尼子再興戦で中心的な働きを行ない、一時は富田城を包囲した。しかし布部・山佐の戦いにおいて、毛利軍に敗北した後は徐々に劣勢となり、元亀二年(一五七一)ごろに出雲国から撤退した。
その後は因幡方面で転戦した後、織田信長の配下である羽柴秀吉の軍勢に加わり、播磨国(兵庫県)の上月城守備を命じられていたが、毛利軍の猛攻によって落城。主君勝久らは自害し、鹿助も捕らえられた。
鹿助は備中松山城にいる毛利輝元の下へ護送されたが、その途上松山城に程近い阿井の渡しにおいて暗殺された。
鹿助については、以下の記事もご覧ください。
3.花ノ壇
山中鹿助像・奥書院を通り過ぎ進んでいくと、復元された建物がある花ノ壇に着きます。


花ノ壇
花ノ壇は、花がたくさん植えられていたことからその名称が付けられました。花ノ壇は敵の侵入を監視することができることや、山中御殿(殿様の居住地)との連絡が容易なことから、指揮力のある武将が暮らしていたと思われます。発掘調査により、花ノ壇には多くの建物跡(柱穴)が発見された部分(南側)と、ほとんど見つからなかった部分(北側)がありました。このことから花ノ壇の南側は武将の生活の場として、北側は戦のときに兵士たちが待機する場として利用されていたと考えられます。また2棟の建物は発掘された柱穴をもとに復元したものです。主屋を休憩施設、侍所を管理棟として活用しています。

案内にもあるとおり、主屋は靴を脱いで休憩することができます。
風が抜ける構造になっているので、夏の暑い日などはここで一休みするのもいいですね。


ちなみに侍所(管理棟)の前には「助太刀傘」の案内があります。


月山富田城
助太刀傘(すけだちがさ)
この度は、月山富田城跡へのご登城、
ありがとうございます。
この傘は、皆様に利用していただけるよう用意したおもてなし用の「傘(かさ)」です。
急な雨降りのときなどには、この傘をお使いください。
次の方のため、使い終わりましたら山麓にある「安来市立歴史資料館」へご返却ください。
当地での良き思い出を胸に帰路に着かれますことをお祈りしています。
登城者への思いやりあふれる素敵な取り組みですね!
4.堀尾吉晴公墓所
ここまでは登り道の順路に沿った案内板でしたが、最後は方面が変わって帰り道にある案内板です。
(帰り道のスポットにはここくらいしか案内板がなかったので…)
冒頭のマップを見ていただければわかりますが、大土塁方面の道を進むとたどり着くのが堀尾吉晴公墓所です。


堀尾吉晴墓
堀尾吉晴は、尾張国丹羽郡御供所村(愛知県丹羽郡大口町豊田)出身の武将。織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉配下の武将として活躍し、後の豊臣政権においては、三中老の一人に任命されるなど、秀吉の信任が大変厚かった。
遠江国浜松(静岡県浜松市)城主時代の慶長四年(一五九九)に隠居し、息子の忠氏に家督を譲り、徳川家康から越前府中(福井県)に五万石を隠居料として与えられた。
慶長五年(一六〇〇)、忠氏が関ヶ原の戦いでの戦功を称され、出雲・隠岐二十四万石の領主となった際、共に富田城に入城したが、慶長九年(一六〇四)に忠氏が急逝したため、まだ幼少であった孫の忠晴の後見として政務に復帰した。
吉晴は松江城の築城と城下町の整備に着手し、慶長一六年(一六一一)松江城が完成すると、同年六十五才で没した。戒名は「法雲院殿前佩帯松庭世柏大居士」。遺骸は、遺言により当地に葬られたと伝わる。
この五輪塔は来待石製で、高さはおよそ3mを測り、来待石製五輪塔としては最大級のものである。空風鈴・火輪・水輪・地輪の各石材の四方には薬研彫りによって梵字が刻まれている。
また、墓の前面には灯篭の基礎と見られる四角形の石柱があり、四方に仏像が陽刻されている。
安定した出雲地方統治のため、月山富田城から松江城へと本拠を移した堀尾吉晴ですが、月山に埋めてほしいと遺言に残すほど、思い入れがある場所だったのかもしれませんね。

ちなみに大土塁から堀尾吉晴公墓所までの道中は、アップダウンこそ少ないもののリアルガチな山道です。


ところどころ案内の矢印はありますが、「ほんとにこの道であってる?」って3回くらいは思ったので、訪問予定の方は自分を信じて突き進んでくださいね!
まとめ
今回は月山富田城のスタート地点から花ノ壇までの案内板をまとめました。
現地の看板はそこでしか分からない情報が詰まっていますが、いざ現地に行くと歩くことに夢中になって、意外と読み飛ばしてしまいがちなもの。
この記事が、皆さんの歴史散歩の振り返りや、次回の城攻めの予習に役立てば嬉しいです。
続きのエリア(山中御殿平、山頂部)についても順次紹介していきますので、ぜひあわせてチェックしてみてくださいね。
それではまた別の記事でお会いしましょう。
月山富田城の城攻めについてはこちらもご覧ください。




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