【現地写真で巡る】月山富田城の案内板を文字起こし2(山中御殿平~七曲り編)

歴史

こんにちは。

前回に続いて、月山富田城の案内板を文字起こしして紹介していきます。

今回は山中御殿平さんちゅうごてんひら~七曲りにある案内板についてです。

城を登っている最中はどうしても先を急いでしまいがち。

「もっと案内板しっかり読んでおけばよかった」「後で読もうと思って写真撮ったけど、逆光でよく見えない」といったことになりがちです。

城を訪れる前の予習として、または現地でのガイドとして、ご活用ください。

前回の記事はこちらから。

案内板一覧

  1. 史跡富田城整備事業
  2. 山中御殿
  3. 史跡富田城跡
  4. 整備案内板
  5. 史跡富田城跡+年表
  6. 親子しんし観音

案内板の大まかな位置は以下です。

1. 史跡富田城整備事業

花ノ壇から山中御殿へ向かう途中にあるトイレのそばに立つ案内板です。

以前進められた整備事業について紹介されています。

史跡富田城跡は、戦国大名尼子氏の居城として中国地方有数の規模を誇る山城で、日本五大山城や日本百名城に選定されています。

安来市では、この富田城跡を地域のシンボルとして、観光資源あるいは生涯学習の場として広く活用を行うために、平成27年度から5ヵ年計画で整備を行います。

(1)遺構の保存をより確実にするための整備

  • 破損した城跡の修復を行ないます。
  • 石垣の崩落につながる樹木の伐採を行います。

(2)樹木の適正管理による城郭遺構の顕在化

  • 街から見上げる景観や、城跡からの眺望を確保するため、樹木伐採を行います。
  • 石垣や土塁等について、見学しやすいよう樹木の適正管理を行います。

(3)富田城跡の理解を深め、親しまれる施設の整備

  • 見学の起点として、展示や模型等を使い、城跡の特徴をわかりやすく理解できるよう、歴史資料館を改修します。
  • 安全、快適に散策できるようサインの整備を行います。
  • あずまや、ベンチ等の休憩施設の改修、整備を行います。

平成27年度から平成31年度にかけて事業を進めております。事業期間中、工事車両の出入り、一部通行止め等、来城者の皆様にはご不便、ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をお願い致します。

なお、この案内板以降山頂までトイレがありませんので、ご注意ください。

ここからまだ山頂までは往復30分はかかるので、不安な方は利用しておくことをオススメします。

2. 山中御殿

山中御殿の案内板です。割れと汚れでかなり読みにくいです。

山中御殿 SANCHUGOTEN

富田城の御殿があったと伝えられる場所で、通称山中御殿と呼ばれています。月山の中腹に位置する山中御殿は、菅谷口、塩谷口、大手口という主要通路の最終地点ともなっており、最後の砦となる三ノ丸・二ノ丸・本丸に通じる要の曲輪として造られました。まさに山中御殿は富田城の心臓部と言えるでしょう。周囲には高さ5m程の石垣や、門・櫓・堀などを厳重に巡らせることによって敵の侵入を防いでいました。整備工事は昭和49~57年度、平成5~8年度で行いました。石垣の調査を中心とした発掘調査では門・石段・井戸・櫓跡などが見つかり、塩谷口で見つかった門跡はなかでも特徴的なものです。

山中御殿平は石垣に囲まれた広大な平地で、さぞ荘厳な建物があったのだろうと想像できます。

3. 史跡富田城跡

山中御殿平の奥の方、七曲りの入り口近いところにある案内板です。

次の4,5の案内板と横並びに設置されています。

史跡富田城跡 THE TODA CASTLE RUINS

富田城跡は、島根県安来市広瀬町に残る、この地方を代表する広大な中世山城跡です。

富田城の始まりは、12世紀後半、源頼朝が出雲の守護として佐々木義清を任命したこととされますが、尼子家三代の戦国武将によって富田城は最盛期を迎え、江戸時代の初期まで富田城は多くの変遷を繰り返しました。尼子氏は大内氏、陶氏、毛利氏との戦を繰り返しながら、因幡、石見、備後など11ヵ国にも及ぶ広大な領地を拡大しました。

しかし、その尼子氏も毛利元就に攻められ、1年半ものあいだ富田城に立て籠っていたにもかかわらず、富田城は毛利氏の手に渡ってしまいます。1600年関ヶ原の戦いで徳川家に敗れた毛利氏は富田城を追われ、替わって徳川家康に味方していた堀尾吉晴が富田城に入りました。しかし山奥にある富田が出雲支配に不便なことから、堀尾氏は城を現在の松江城に移してしまいます。難攻不落と言われ、数々の武勇を生んだ名城富田城は、その後二度と城として使われることはありませんでした。

世の中が混乱していた戦国時代には、敵からの攻撃を防ぐために高く険しい山に城を造る必要がありました。山の山頂を中心とした尾根や谷など、自然の地形を利用して造られた城を『山城やまじろ』といいます。このように複雑な地形を自然の要害として造られた富田城は、戦国時代攻めるのが最も難しい城として有名でした。

やすぎっちょ
やすぎっちょ

富田城盛衰の歴史の概略が説明されています。

ちなみに富田城の材木や石垣の一部は松江城の建築にも使われたといわれており、役目を終えても富田城が少し活躍していたというのは地元民としてなんだか嬉しいですね。

4. 整備案内板

先ほどの案内板の隣にある整備事業についての案内板です。

こちらも表面が傷んできており、文字はまだ読めますが、写真はほとんど見えなくなってきています。

整備案内板

史跡富田城跡は、月山の山頂を本丸とした広大な山城跡です。

昭和9年には、この地方を代表する中世城郭跡として国の史跡指定を受け、保存・保護の対象とされています。平成5~8年度に実施した史跡等活用特別事業(ふるさと歴史の広場)は、廃城以後400年近くを経過し、当時の姿を失ってしまった城跡を調査等により、忠実に石垣や建物等を復元し、その姿の一端を再現したものです。

5. 史跡富田城跡+年表

史跡 富田城跡

富田城跡は、急峻な山である月山を中心とし、周囲の丘陵上にも曲輪や石垣、堀切、土塁などの防御施設を配した大規模な城郭跡です。戦国期には、尼子氏の居城として繁栄を極め、その後は、毛利氏、吉川氏、堀尾氏と城主が交代し、慶長十六年(1611)に堀尾氏が松江城を築きそこに移ったため、その後廃城となりました。富田城は、歴代城主により幾度も改修工事が行われたとみられ、様々な時期の遺構が混在しています。昭和九年(1934)には、その歴史的価値が認められ、国の史跡に指定されました。

(年表は省略)

6. 親子しんし観音

月山富田城最大の難所、七曲りの途中にある親子観音の案内板です。

親子観音

親子しんし観音は来待きまち石製の宝篋印塔ほうきょういんとうで、同じく来待石製の石廟せきびょうに納められている。石廟の壁面全体には陽刻により四十九本の塔婆とうばが表現され、それぞれに「空風火水地」の文字と四十九院しじゅうくいん名などが彫られている。宝篋印塔には、基礎部側面に「慶長十三年」、「十二月五日」と彫られており、伝承では、堀尾家お家騒動の首謀者とされ、処罰されたとされる、堀尾河内守かわちのかみとその子掃部かもん(一説では勘解由かげゆ)両名の墓であるとされてきた。

しかし近年の調査により、宝篋印塔の基礎部正面に

「桂院殿祥雲大居士儀」(太字の文字は風化により確定できない)

と戒名が記されていることが確認された。

この戒名は、堀尾家の菩提寺である妙心寺春光院みょうしんじしゅんこういん(京都府京都市)所蔵の過去帳に記載されており、没年月日もこの宝篋印塔のものと一致しているが、俗名の記載はない。

さらに、堀尾吉晴よしはるから忠晴ただはるまで仕えた家臣である、堀尾但馬たじまが記したとされる『堀尾古記』には、慶長十三年(一六〇八)の粂に、「一 堀尾勘解由果ル、極月(十二月)五日京ニテ」との記述がみられることから、この戒名は堀尾勘解由のものと考えられる。よってこの墓石も勘解由のものである可能性が高いと考えられる。

やすぎっちょ
やすぎっちょ

ちなみに、この親子観音を過ぎたあたりからが月山富田城の中で一番しんどい場所(経験談)でした。

イケイケGoGo!とばかりにノンストップで登ってたら心臓破裂するかと思いましたので、皆さんはこまめに休憩はさみながら無理せず登ってくださいね

まとめ

月山富田城の心臓部ともいえる山中御殿にある案内板を、写真と文字起こしで紹介しました。

山麓から登ってきてこの山中御殿の開けた空間にたどり着いたとき、石垣や敷地の広大さに圧倒された方も多いのではないでしょうか。

尼子氏の栄華と激動の歴史を色濃く残す山中御殿。そしてその先にある「難攻不落の要」ともいえる七曲り。建物は残っていなくとも、歩いてみるとかつてここを舞台に繰り広げられたドラマの熱気を感じることができるはずです。

次回は3回シリーズのいよいよ最終回「三ノ丸~本丸」の案内板を紹介していきます。

一度も敵に攻め入られることのなかった月山富田城の聖域には、どんなものがあるのか。乞うご期待!

それではまた別の記事でお会いしましょう。

月山富田城を訪れる前にはこちらもご覧ください。

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